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ヤクブ・ベクの登場

1864年夏、カシュガルでもムスリムの蜂起が起き、キルギス人のシディク・ベクが回民の金相印と連携して王を称した。たが、蜂起は他の地域ほどには成功しなかった。シディク・ベクはイェンギサールを攻略することができなかったし、カシュガル城内も清の協力者であるクトルク・ベクに押さえられていた。1865年になると地域の制圧ができない状況に対し、キルギス人と回民はコーカンド・ハン国の支配者であるアリム・クリーに物心両面での援助を求めた。精神的な援助はブズルグ・ホージャによってもたらされた。彼はカシュガルの人々の宗教的な権威である白山党(アーファーキーヤ)のホージャであり、ジャハーンギール・ホージャの息子、ワリー・ハンの弟であった。物質的な支援としてヤクブ・ベクがコーカンド・ハン国の兵とともに派遣された。

シディク・ベクと配下のキルギス人は既にカシュガルのムスリム地区を確保していたが、ブズルク・ホージャとヤクブ・ベクが到着するとクーデターによりその支配は打ち砕かれた。3月にシディク・ベクは7千の兵でカシュガルを襲撃したが、ヤクブ・ベクはわずか百名の騎兵で夜襲をかけて撃退した。シディク・ベクの勢力を傘下に収めて勢力を拡大し、4月11日にイェンギサールを陥落させ、さらにシディク・ベクの残党を東トルキスタンから放逐した。

こうしてイェット・シェヘル・ハン国が成立した。4月下旬、ヤルカンドを攻撃したが失敗し、引き返す途中にクチャのラシッディーン・ホージャの軍に遭遇し大敗した。ヤクブ・ベクは軍を整え、清軍が守るカシュガル漢城を攻撃した。9月1日、カシュガル弁事大臣の奎英は自殺し、守備の何歩雲は投降し、投降した者はイスラム教への改宗を余儀なくされた。また1865年5月、タシケントに攻め込んできたロシア軍との戦いでアリム・クリーは命を落とし、9月までに約7千の兵が国境を越えてカシュガルに逃れヤクブ・ベクに合流した。それによって勢力が増大したヤクブ・ベクはカシュガルとホータンを占領した。この時ブズルク・ホージャはヤクブ・ベクを排除しようとしたが、逆にヤクブ・ベクに追放されてしまった。さらにヤクブ・ベクはラシッディーン・ホージャの勢力を打ち破り、アクスを占領し、クチャ以外の天山南路を支配下に置いた。

1867年、ヤクブ・ベクはイェット・シェヘル・ハン国を廃止し、バダウレト・ハンと名乗って名実ともに支配者となり、5月にはクチャとコルラを征服して天山南路を統一し、シャリーアに基づく統治を開始した。ブハラ・ハン国はアタリク・ガジ(信仰の守護者)の称号を与えた。1868年、イギリスが特使を派遣してヤクブ・ベク政権を承認した。こうしてヤクブ・ベクはイギリスから武器を供給を受けることができるようになった。イギリスとしては東トルキスタンをロシアとインドとの緩衝地帯にしようとしたのである。1870年、ロシアもヤクブ・ベク政権を承認した。

1870年には装備を整えたヤクブ・ベク軍はトゥルファンを攻略して東トルキスタン北部と河西回廊の連絡を断ち、白彦虎率いる陝西省・甘粛省の回民蜂起軍の残党を吸収して、勢力を増していった。1871年末までに妥得璘軍を破ってウルムチ・マナス・ピチャンを占領した。そのため同年にはロシアがイリ地方への進駐に踏み切った。

ヤクブ・ベク政権とロシアの関係は良好で、1972年には条約を締結して貿易を開始した。1974年にはイギリスとも類似の条約を結んで、大使を交換している。さらにオスマン帝国のスルタンのアブデュルアズィズからアミールに封ぜられ、軍事教官の派遣を受けた

清朝の反応
1872年7月、清朝の内部では依然としてヤクブ・ベクの対応について争議がなされていた。主戦派である左宗棠は“事は国の大事および外国との関係にかかわり、適当にではなく徹底的に解決する必要がある”と主張し受け入られ、兵を率いて蘭州に進駐し新疆(東トルキスタン)討伐への準備を開始した。

左宗棠は戦略的な準備工作を丹念に行い、「緩進急戦」と呼ばれる戦略をとった。「緩進」とは1年半の時間かけて屯田を行い兵糧を蓄え、また同時に軍の整頓を行うことで、西征の参加を躊躇する者は給料支給の上で本籍へ送還され、志願兵のみが残りその結果士気が高い精鋭軍ができ上がった。「急戦」とは当時貧しい国庫の状態を考慮し、戦闘が開始次第に速戦即決を努め1年半以内の時間で全勝を収める作戦である。左宗棠は軍費を白銀8百万両程度と見積もったが、余裕を持たせ朝廷に1千万両を求めた。当時の財政大臣であった沈葆楨は地方からこの費用を集めようとしたが、これでは時間がかかる上に全額集まるどうかも怪しいのは目に見えていた。しかし軍機大臣の文祥が同治帝及び摂政である西太后に陳情し、皇帝の支持を受け国庫から5百万両が捻出され、また諸外国から5百万両を借款する承認を賜り、1千万両の軍資金を賄うことができた。

また、大英帝国及びロシア帝国から新式の武器の供給を受けていたヤクブ・ベク軍に対抗するため、左宗棠は蘭州に武器製造廠である「蘭州製造局」を設立した。彼は広州や浙江から武器製造のエキスパートや職人を招き、外国の技術を取り入れ新式の武器の製造に成功した。それと同時に、左宗棠は蘭州に「甘粛紡織総局」を設立した、これは中国における最初の機械的な紡織工場である。

1875年、新疆出兵に対し朝廷内でまた争議が発生した、「海防派」と「陸防派」の論争である。李鴻章に代表される「海防派」は新疆を放棄し、資金を海防に回すことを主張し、彼は乾隆帝の新疆平定から百数十年あまりの間、統治維持のために毎年数百万両の白銀が費やされていることを指摘し、国庫を空にして西征を行うよりもイギリス人の条件をのみ、ヤクブ・ベクの独立を認め朝貢させればよいと主張した。一方「陸防派」である左宗棠は、新疆を失えばかの地は必然的にイギリスかロシアの影響下に入り、中国は西北部の防御の要を失いかえってもっと多くの兵力を西北防御に費やすことになり、また新疆を失えば国威が衰え、民心を失い、諸外国はつけあがるゆえかえって海防に支障をきたすことになるだろうと主張した。結果、左宗棠と同様な見解を持っていた軍機大臣文祥の支持もあり、光緒帝及び摂政西太后は左宗棠に同意した。左宗棠は欽差大臣に任命され、金順を副将に、新疆討伐が決まった。

北部での戦い
1876年4月の出兵時には、先鋒部隊を率いる張曜にクムルで糧食を集めさせていた。左宗棠の指揮する軍として劉錦棠の湘軍25営、張曜軍14営、徐占彪の蜀軍5営があり、これに東トルキスタンの各拠点の清軍を併せることで、歩兵・騎兵・砲兵合わせて150営、総数8万人となった。左宗棠は粛州(現在の酒泉)にいて、劉錦棠と金順に二手に分かれるように命じた。劉錦棠は北路を行き、金順は南路を行き、クムルで合流することとなった。劉錦棠軍が先にクムルに入り、ウルムチ近郊のジムサルを占領した。

ヤクブ・ベクは清軍の進攻を聞き、馬人得・馬明・白彦虎らをウルムチなど東トルキスタンの要地に配備した。主力の2万人はトゥルファンとトクスンにあり、ヤクブ・ベクはトクスンで督戦に当たった。

8月上旬、劉錦棠軍と金順軍はウルムチの北の要地の米泉を包囲した。17日、大砲で城壁を破壊した後、城内に入り、数日の激戦の後に制圧した。そしてそのまま勝ちに乗じてウルムチを占拠した。ヤクブ・ベク軍の白彦虎はトクスンに逃れた。金順はそのまま西進したが、サンジ・シャヒリとフトビとマナス北城の守備兵は戦わずして退却した。金順はマナス南城を攻めたが落とすことができなかったため、劉錦棠とイリ将軍栄全の援軍が到着した。その結果、11月6日に陥落させ、東路と天山北路は清朝の支配下に入った。

南部での戦い
1877年4月14日、清軍は数ヶ月の休息の後、天山南路に向けて進軍を開始した。劉錦棠軍はウルムチを南下し、16日には達坂城を包囲した。18日に城外に砲台を築き、翌日から攻撃を開始した。ヤクブ・ベク軍は突破を図ったが失敗し、投降した。

同時に張曜軍と徐占彪軍がトゥルファンに迫った。4月26日、劉錦棠軍はトクスンを占領した。ヤクブ・ベクはカラシャールに逃れ、子にコルラを守らせた。その後、張曜軍と徐占彪軍は羅長祐の湘軍と協力してトゥルファンを陥れた。この時、天山南路ではヤクブ・ベクの統治への不満が増大しており、ヤクブ・ベクは大勢は去ったとして自殺した。もっとも毒殺されたとの説もある。ヤクブ・ベクの死後は白彦虎とヤクブ・ベクの長子のベク・クーリ・ベクが抵抗を継続した。

この時、李鴻章らの働きかけで、軍費がかかるので兵を休めさせよとの勅令が下ったが、左宗棠は戦争の継続を説いた。西太后は左宗棠の論に納得し、戦争は継続されることとなった。またこの頃露土戦争が発生しており、金順はこの機に乗じてイリ地方を奪取すべきと提案したが、左宗棠の採るところとはならなかった。

9月、清軍は西進を開始し、カラシャールとコルラの守備兵は戦わずにクチャに退いた。10月18日、劉錦棠軍はクチャを攻略し、白彦虎は西に逃れた。24日にはアクスを、26日にはウシュトゥルファンを占領し、東の4城を手中におさめた。さらに西のヤルカンド、イェンギサール、ホータン、カシュガルの守備軍も恐れて内部から崩壊を始めた。ヤクブ・ベク軍に降伏していた前カシュガル守備の何歩雲は機に乗じて、満州人と漢人数百人を率いて漢人居住地区を占拠した。劉錦棠はこれを聞いて前進を始め、12月下旬までに西の4城を陥落させた。ベク・クーリ・ベクと白彦虎はロシアに逃れた。この時に白彦虎に従った回民の子孫が現在のドンガン人である。戦闘は終結し、山中のキルギス族も清軍に服属した。こうしてイリを除く東トルキスタンは再び清の征服するところとなった。

イリ条約 [編集]
イリ地方は、1871年以来ロシアの支配下にあり、その帰属が問題となっていた。1880年、左宗棠は新疆省の設置とイリ返還の交渉を提議した。提案は採用され、崇厚を全権大使としてロシアに派遣した。ロシアはイリ地方の割譲と賠償金の支払いと通商を要求し、崇厚この要求を受諾した。左宗棠はこれに反対し、西太后は崇厚を罪に問うた。代わって曽紀沢がロシアに派遣されたが、左宗棠はイリ方面に兵を動かしロシアに圧力をかけた。ロシアは露土戦争の直後ということで戦争は避けたいというのが本音であったため、妥協することとなった。こうしてイリ条約が結ばれ、清はイリ地方の一部を回復し、賠償金も減額された。

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2009年04月14日 11:45に投稿されたエントリーのページです。

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