1550年代になってモスクワ防衛のため同市の周囲には城塞都市が建設されたが、同様に修道院にも北東からの侵入に備え、周囲に12基の塔を備える1.5キロメートルの石壁が作られていった。1608年から1610年にかけてポーランド・リトアニア連合によって行われた16ヶ月に及ぶトローイッツェ・セールギエフ大修道院の包囲戦 Siege of Troitse-Sergiyeva Lavraにも耐え抜いた。大聖堂門の漏斗孔は、1618年のヴワディスワフ4世による包囲戦を退けたことを記念して保存された。こうしてトローイッツェ・セルギエフ修道院は、ロシアにとって愛国心や不撓不屈の精神力の代名詞とも言うべき存在になっていった。歴代皇帝は、戦いの前後に修道院に赴き、聖セルギーのイコンを手に戦場へと馳せるようになった。
17世紀末まで、若きピョートル大帝が政敵から2度に渡り修道院に逃れるなどしたこともあり、皇帝や皇后、高位高官を迎えるための多数の施設が建設された。その中には皇帝のための迎賓館、御成御殿ともいうべきバロック様式の皇帝宮殿がある。聖セルギーの食堂(トラーベズナヤ)は中央に柱などの支えが無い、ロシア最大規模510平方メートルを室内空間であった。5つのドームを擁する門上プレッテンチェースカヤ教会(バプテスマのヨハネ降誕教会)は、1693年から1699年にかけて、ストロガノフ家の寄付によって建設された。その他、17世紀の建築物としては、修道士の居室、ゾシマ・サヴァティー教会を頂く病院などがある。なお、教会建立の際、神聖と見なされる井戸が覆われてしまったが、後に1644年発見された。
1744年女帝エリザヴェータ・ペトローヴナによってトローイッツェ・セルギエフ修道院は、ラヴラ(大修道院)の格を与えられた。以後、大修道院長は、モスクワ府主教も兼務するようになる。エリザヴェータ自身もしばしば修道院に行幸したが、こうした女帝の行幸には、女帝と秘密結婚をしたとの噂もあった寵臣アレクセイ・ラズモフスキー Alexey Razumovsky伯爵も同道した。ラズモフスキー伯は、スモレンスクにある聖マリア教会の管理も行っていたが、この教会は最後に大修道院の格を得た教会であり、エリザヴェータお気に入りのもう一つの教会であった。イワン・ミチューリンIvan Michurinとドミトリー・ウフトムスキーDmitry Ukhtomsky. 設計による高さ88メートルの白と青のバロック式鐘楼は、当時としてはロシア一の高層建築であった。
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ロシア正教会の中心的大修道院として [編集]
1764年女帝エカテリーナ2世により、ロシア国内の修道院が所有する領地と農奴は、国家の所有となった。この改革により、修道院が保持していた政治的、経済的権力基盤は堀崩され、国家による一元支配が貫徹されることとなった。もっとも、19世紀を通して、至聖三者セルギー・ラヴラ(トローイツェ・セールギエフ大修道院)は、ロシア正教の修道院中、最も豊かな地位を保った。エカテリーナ2世の聴悔司祭プラトンは、大修道院院長であったということで特別な配慮がなされたことも影響した。さらに大修道院は、ロシア正教会の一大宗教センターとして発展を遂げた。1742年に設立された神学校は、1814年に教会アカデミーecclesiastical academyに改組された。大修道院は写本と正教関係の書籍の一大コレクションを誇った。大修道院が所有する中世の聖具室sacristyは、たくさんの訪問客が訪れた。セルギエフ・ポサドの市内には、大修道院の他にも、いくつか小さな修道院が建立され、その中には哲学者のコンスタンチン・レオンチェフKonstantin Leontievやヴァシリー・ロザノフVasily Rozanovなどが埋葬されている。